2016年3月16日水曜日

質問4: 絹の生産はヒムサー(殺生)が関っていますが、日本の伝統の絹織物を止めるのは難しいことです。どのようにしたら良いでしょうか。

ヒンドゥーの話からしますね。

ヒンドゥーは「アヒムサー」が一番の価値なので、何千年その習慣が続いていようと、周囲に迷惑をかけている、もしくは顰蹙(ひんしゅく)を買っているとわかれば、あっさり辞めてしまいます。

長年続いた習慣を辞めてでも、アヒムサーを貫く。
それこそがヒンドゥーの不屈の伝統なのです。

ネパールでは、4年に一度、何万頭もの水牛を生贄にする儀式が数百年も続いていました。昨年になって、インターネットを通じて世界的な批判を浴び、結果として、あっさりとその儀式を金輪際続けないことが決められました。

(批判している人々の大多数であろう、ノン・ベジタリアンの食用のために、毎日1億頭以上の動物が殺されているという事実は、なぜか批判されない。)

時代の波に逆行し、周りに迷惑をかけていると知れば、長年続いた慣習をあっさりと辞めるのも、ヒンドゥーの文化なのです。


話を日本の伝統の絹織物に移します。

では、人間が増えすぎたこのご時勢、日本の伝統文化をきっぱり途絶えさせてしまうか?

それは出来ない。

かといって、「伝統保護」を正当化するために、絹生産のヒムサーに目を伏せたり、無理矢理めちゃくちゃな理論で肯定するのは、自己分裂を起こし不健康です。

ここで、私がお勧めするのは、「プラーヤスチッタ(穴埋め)」を取り入れることです。

ヴェーダでは、知って・知らずして行った殺生に対して、「プラーヤスチッタ」と呼ばれる「穴埋め行為」を教えています。
例えば、家を造る為に木を10本切ったなら、苗木を100本植えて水をやればよい、といった感じ。だいたい10倍ルール。それが自然のサヴァイヴァル・レートだからね。

毎日の生活の中で避けられない殺生(掃除したり、耕作したり、料理したり、歩いただけでも虫を踏んでるかもしれないしね)のプラーヤスチッタとして、「ブータ・ヤッニャ」や「マヌッシャ・ヤッニャ」と呼ばれる動植物や人間に対する奉仕が教えられています。

もし日本の文化がコンプリートなものであれば、絹織物と対になるような、伝統のプラーヤスチッタがあるはずです。
でももし蚕供養寺とかがあったとしても、そこに年に一回通うだけでは帳尻は合いませんね。10倍ルールで自然に奉仕する方が、精神衛生に良いでしょう。

特に何も見つからない場合、蚕さんたちに犠牲になって絹織物を着せてもらっている分、穴埋めとしてなにか自然保護に関する行為をすればいいと思います。
例えば、絹を着る日は菜食にするとか、一食抜くとか。

絹織物の文化を伝承するときには、プラーヤスチッタと共に教えれば良いと思います。

ーーー

インドの僧(サンニャーシー)達は、「動物にヒムサーをして健康になるぐらいなら死んだほうがまし」と本気で思っていて、さらにそれを実行している人達だから、絹なんて絶対着ないし、生活の全てがそんな感じです。
肉食も妻帯もする日本の僧とは話が違いすぎます。
しかし、明治時代までは日本の僧も菜食・独身だったそうですが、帝国主義の風潮に併せて、政治的圧力で、僧侶たちに肉食と妻帯を強要したそうです。

ヴェーダの文化では、僧侶の生き方(ダルマ)と家庭人の生き方は、全く違います。家庭人が皆「殺生するくらいなら死んだほうがまし」などと言い出したら社会が成り立ちません。家族や社会を養うのが家庭人のダルマです。その為に少々のアヒムサーは妥協する代わり、プラーヤスチッタをして精神衛生を保つように教えられています。

インドはカースト制度で有名ですが、もともとは、人それぞれ違うダルマを持ち、それぞれの役割・生き方がある、というアイディアです。それがイギリス人に歪められて今に至るのですが。

あともうひとつ。
ヴェーダは「こうしなさい」とは教えません。
「こうしなさい」と言っているように聞こえるけど、実際は、「こうすると後でいいことあるよ。こうすると後で痛い思いするよ」とだけ教えています。
それをするかしないかは、自分次第です。
自分がしたことは自分に返って来るというカルマの法則は変えられないけど、その法則の中で、自由意志を使って賢い選択をするのが、立派な脳みそを与えられた人間の、最も人間らしい脳みその使い方なのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿

コメントを残す前に、必ず「前知識」を読んでくださいね。