2016年10月30日日曜日

質問11: ベジタリアンになって栄養失調になった人の話を聞きます。


そのような例がブログで紹介されていたりしますが、
オルトレキシアの良い例のようですね。

オルトレキシアとは、
”極端もしくは過度な先入観によって引き起こされる摂食障害や精神障害”
(Wikipediaより)

世界で何億人という人が、何世代も、肉や魚を食べずに、
健康で楽しく生きている現実を無視して、
ほんの2、3人の極端な例を出して、ベジタリアンを批判するなんて。。。!

ベジタリアンを批判する人は、自分がノンベジを食べていることに罪悪感を持っている人です。

もう少し心に余裕をもって、知的に、人間らしく生きたいですね。

2016年6月20日月曜日

質問10: お肉が食べられないと、人生が楽しくなくなるのでは?

この質問は、面と向かって直接返事をしにくい質問です。


なぜなら、

「動物を殺して、その死骸を食べるのが、あなたの人生の幸せの意味なの?」

「あなたにとって、『楽しい』とは何?」

とは、面と向かって質問者に聞き返しにくいからです。

 


自分にとって、「楽しい」とは何か、考え直す機会にしてみてください。


殺された動物を食べるから、楽しい。

殺された動物を食べなかったら、楽しくない。


このような考えを持っているからこそ出来る質問ですよね?


いやいや、自分は動物を殺すことは良しとはしないけれど、

みんなが食べているから、

自分が生きていくために死ななくてもいい命を殺してでも、
 肉を食べて楽しくならなきゃ!!

という臆病な考えを持ち、それを貫いている臆病な人が多くいますが、

そうでない人もいるのです。



間違ったことや、暴力や殺戮でも、

自分の頭で考えることを麻痺してストップさせて、

「楽し~」 と肉にかぶりつくのが、あなたの人生の価値観なら、

あなた自身があなたを虐げているのです。


今までの固定概念や「みんな一緒」の価値観に、

ちょっとでも「違うな」と感じたら、その瞬間から、自分の選択、自分の人生は変えていけるのです。

それを止めているのは、臆病なあなた自身なのです。

2016年5月18日水曜日

質問9: この先一生の間、肉や魚類を絶対食べない!なんて決心は付きません。どうせ挫折するだけだし。

解答:

世界中のトレンドになりつつある、ミート・フリー・マンデーを試してみては?



こちらもチェック:
ミート・フリー・マンデーの広がりでベジタリアン料理が進化


身体と心の健康にも、
未来の子供たちにも、
環境・動物・植物たちにも
いいことをするのは、HAPPYを増やすことです。
出来るところから始めてみましょう!

Have a happy life!



2016年5月17日火曜日

質問8: 屠殺(とさつ)場や解体するところを見学して、現実に向きあうべきなのでは?


このような記事を見かけるので、、、
いただきます絵本プロジェクト
狩りガール

現実を直視しなければ、と言って、
屠殺(とさつ)場や解体するところを見学して、
残酷で血生臭い光景を見た後で、
何を学びますか?

痛む心を殺して、

「でも、これが人間の生きていく道なのだ!
食肉産業の人達の職がなくなるし、人間にとって都合がいいからね!」

と納得して、

死んでもらった動物さん達に、
「いただきます」と言って命を頂く。

それは正しいことなのでしょうか?

考えてみてください。

広島原爆資料館を見学して、
残酷で血生臭い光景を見た後で、
何を学びますか?

「こういうことは繰り返してはならない」

ですか?

それとも、

「でも、戦争ビジネスは儲かるから、仕方ない!」
「これが人間の生きていく道なのだ!」
「だから、これからもどんどん戦争を続けなきゃね!」

と結論して、それを子供にも教えますか?

「死」や「痛み」に鈍感になるように強要し、

嗜好やお金儲けの為に殺された動物の死骸を

自分の口に押し込むことは、人間として正しいことでしょうか?


上記リンクの、命をいただく絵本は、一見すると道徳的なことを言っているようですが、

他への痛みへの共感をねじ伏せるように勧める、

畜産業者にとって都合の良い消費者教育です。

営利のためなら道徳も歪ませる、戦争ビジネスと同じです。

狩りガールも然りです。


死んでもらった動物さんに、

「いただきます」と気軽に言うけれども、

動物さんに死んでもらわなくても、

充分たんぱく質は摂れるのですよ。

動物さん達を食べることは、

菜食よりも、より多くの植物の命を奪うことになるのですよ。

せっかく頭脳を持って生まれてきたのだから、

ちゃんと使わなければ、もったいない。。。


2016年5月3日火曜日

質問7: ベジタリアンでも殺生をゼロにするのは無理でしょう。


解答:

まず、そもそも、

『ベジタリアンの人は、「自分達は殺生を全くしていない!」と思って、偉そうにしている』

というのは、勝手な妄想です。


ベジタリアンへのバッシングの殆んどは、この勝手な妄想に基づいています。

肉食を正当化するために、主観を高めている表れです。

ちなみに、真実を直視できる強さがあれば、

肉食を正当化し続けることは、なかなか難しいと思います。


野菜や穀物を生産するのにも、その周りで生きる虫たちに迷惑をかけてしまう。

肉食をすると、それの数倍~数十倍の虫たちの殺生をしてしまう。

なぜなら、食肉の生産には、大量の穀物はもちろん、水・電気・石油・薬物が必要です。

さらに、大気・土壌・水源にも、大量の汚染物質が放出されます。

肉食は、これだけの無駄な殺生や環境への負担によって成り立っているのです。


肉食の人は、ベジタリアンよりも、数倍~数十倍の植物を殺生している

という自覚が必要です。

植物の殺生だけでなく、環境汚染についても、

肉食の人の方がベジタリアンよりも何倍も環境汚染に加担している

という事実は、日本でももっと知られるべきです。


それを良く分かっているから、ベジタリアンの選択をするのです。

出来るだけ、自然と調和して、自然に負担のかからない選択は、ベジタリアンだからです。


「野菜の生産には多くの虫たちの殺生がある。だから、ベジタリアンは偽善だ!」

と、とある自称仏教家が批判していたのを聞いたことがありますが、

それがどれだけ浅はかなのかを、よくよく考えてみて下さい。




『ノン・ベジタリアン = 殺生してる』

は正しいですが、

『だから、、、

ベジタリアン = 殺生していない = 殺生ゼロ

のはず!』

というのは、思考能力の低さを表しています。

世界の全てを、有・無のバイナリー式で物事を捉えようとすることには無理がある、

ということに気付かなければなりません。


 
人間は、生きていく上で、どれだけ気をつけても、

他の命を傷つけたり、殺生したりするのは避けられない。

他の命の痛みを痛切に感じられる繊細さをもっているからこそ、

「出来るだけ無駄な殺生はやめよう」と決心するとき、

おのずと食べるものは、ベジタリアンの選択になります。




ノン・ベジの人がこれを読むと、反射神経的に、反論・抵抗したくなると思いますが、

深呼吸して、心を鎮めて、平和な心をもってして、

「こういう世界との関わりあい方があるのだな」と、

理解することに努めていただきたく存じます。。。

2016年4月9日土曜日

質問6: 自分はなかなかベジタリアンにはなれそうにないです。


質問:

べりタリアンは環境にとってエコで素晴らしいことは理解できますが、

じゃあ、自分が今日からベジタリアンになれるか、というと自信が無い。
どうしたらいいですか。



答え:

自分がベジタリアンになれなくても、ベジタリアンを応援することは出来ます。


「ベジタリアンは地球環境や心身の健康に良い」という情報を、

SNSでシェアしたり、いいね!をしたりするだけでも、

肯定的な参加になります。



ベジタリアンでもない人が、ベジタリアンを推奨する記事に「いいね!」をするのは、

偽善でもなんでもありません。応援です。

何もしないよりは、「これが今の自分に出来ること」

「今の自分が貢献できる最大のこと」と思って、

どんな小さなアクションでもした方が、健康的です。

 
自分がベジタリアンになれないからといって、

ベジタリアンを否定したり反対派になったり、

ましては批判や中傷をする必要は無いのですから。

2016年3月16日水曜日

質問5: ベジタリアンになると、栄養失調になりませんか?

答え: なりません。

世界中で何億人という人々が、ベジタリアンとして健康に生きています。

日本で普通に手に入る食材で出来たベジタリアンで、完全に栄養はまかなえます。

ベジタリアンになって栄養失調になった有名人の話が出回っていますが、

それが真実なのか分かりませんし、もし真実なら、実際毎日何を食べていたのかを分析すると、

問題はベジタリアンであったことではなく、たんに偏った食生活をしていたに違いありません。

食生活が偏っていなくても、精神的にも偏った生活をしていたら、健康を損ないます。


菜食の意義への認識が低く、ベジタリアン後進国の日本では、あまり理解されていませんが、

「ベジタリアン = 栄養不足」という考えは、狭く偏った考えです。

質問4: 絹の生産はヒムサー(殺生)が関っていますが、日本の伝統の絹織物を止めるのは難しいことです。どのようにしたら良いでしょうか。

ヒンドゥーの話からしますね。

ヒンドゥーは「アヒムサー」が一番の価値なので、何千年その習慣が続いていようと、周囲に迷惑をかけている、もしくは顰蹙(ひんしゅく)を買っているとわかれば、あっさり辞めてしまいます。

長年続いた習慣を辞めてでも、アヒムサーを貫く。
それこそがヒンドゥーの不屈の伝統なのです。

ネパールでは、4年に一度、何万頭もの水牛を生贄にする儀式が数百年も続いていました。昨年になって、インターネットを通じて世界的な批判を浴び、結果として、あっさりとその儀式を金輪際続けないことが決められました。

(批判している人々の大多数であろう、ノン・ベジタリアンの食用のために、毎日1億頭以上の動物が殺されているという事実は、なぜか批判されない。)

時代の波に逆行し、周りに迷惑をかけていると知れば、長年続いた慣習をあっさりと辞めるのも、ヒンドゥーの文化なのです。


話を日本の伝統の絹織物に移します。

では、人間が増えすぎたこのご時勢、日本の伝統文化をきっぱり途絶えさせてしまうか?

それは出来ない。

かといって、「伝統保護」を正当化するために、絹生産のヒムサーに目を伏せたり、無理矢理めちゃくちゃな理論で肯定するのは、自己分裂を起こし不健康です。

ここで、私がお勧めするのは、「プラーヤスチッタ(穴埋め)」を取り入れることです。

ヴェーダでは、知って・知らずして行った殺生に対して、「プラーヤスチッタ」と呼ばれる「穴埋め行為」を教えています。
例えば、家を造る為に木を10本切ったなら、苗木を100本植えて水をやればよい、といった感じ。だいたい10倍ルール。それが自然のサヴァイヴァル・レートだからね。

毎日の生活の中で避けられない殺生(掃除したり、耕作したり、料理したり、歩いただけでも虫を踏んでるかもしれないしね)のプラーヤスチッタとして、「ブータ・ヤッニャ」や「マヌッシャ・ヤッニャ」と呼ばれる動植物や人間に対する奉仕が教えられています。

もし日本の文化がコンプリートなものであれば、絹織物と対になるような、伝統のプラーヤスチッタがあるはずです。
でももし蚕供養寺とかがあったとしても、そこに年に一回通うだけでは帳尻は合いませんね。10倍ルールで自然に奉仕する方が、精神衛生に良いでしょう。

特に何も見つからない場合、蚕さんたちに犠牲になって絹織物を着せてもらっている分、穴埋めとしてなにか自然保護に関する行為をすればいいと思います。
例えば、絹を着る日は菜食にするとか、一食抜くとか。

絹織物の文化を伝承するときには、プラーヤスチッタと共に教えれば良いと思います。

ーーー

インドの僧(サンニャーシー)達は、「動物にヒムサーをして健康になるぐらいなら死んだほうがまし」と本気で思っていて、さらにそれを実行している人達だから、絹なんて絶対着ないし、生活の全てがそんな感じです。
肉食も妻帯もする日本の僧とは話が違いすぎます。
しかし、明治時代までは日本の僧も菜食・独身だったそうですが、帝国主義の風潮に併せて、政治的圧力で、僧侶たちに肉食と妻帯を強要したそうです。

ヴェーダの文化では、僧侶の生き方(ダルマ)と家庭人の生き方は、全く違います。家庭人が皆「殺生するくらいなら死んだほうがまし」などと言い出したら社会が成り立ちません。家族や社会を養うのが家庭人のダルマです。その為に少々のアヒムサーは妥協する代わり、プラーヤスチッタをして精神衛生を保つように教えられています。

インドはカースト制度で有名ですが、もともとは、人それぞれ違うダルマを持ち、それぞれの役割・生き方がある、というアイディアです。それがイギリス人に歪められて今に至るのですが。

あともうひとつ。
ヴェーダは「こうしなさい」とは教えません。
「こうしなさい」と言っているように聞こえるけど、実際は、「こうすると後でいいことあるよ。こうすると後で痛い思いするよ」とだけ教えています。
それをするかしないかは、自分次第です。
自分がしたことは自分に返って来るというカルマの法則は変えられないけど、その法則の中で、自由意志を使って賢い選択をするのが、立派な脳みそを与えられた人間の、最も人間らしい脳みその使い方なのです。

2016年1月24日日曜日

質問3: 人間は何を食べるように造られているのでしょうか

人間は何を食べるべきか

この命題は様々な形で論じられています。

ある研究者は、人間の腸の構造を見て、人間は草食だ、肉食だ、雑食だ、と言います。

ある研究者は、人間の歯の形を見て、犬歯が4本あることから、歯の全体の8分の1を占める、

12.5%は肉を食べるべきだと言います。

「朝ごはんは健康に良い」「朝ごはんは健康に良くない」

「一日に何回も小分けにして食べるのが良い」 「一日一食が良い」

「バナナは一日一本」「バナナは身体を冷やすから駄目」

「牛乳は毎日飲まないと」「牛乳を人間が搾取するのは人体にも環境にも良くない」

常に相反する研究結果が報告され、

「これを食べると良い」という新しい情報が毎月のように更新されています。

お肉やお酒やタバコで健康を害している人が沢山いる中で、

それら全てを毎日たしなみながら100歳以上活きる人もごく稀にいます。

人体科学的に見ると、結局のところは「よく分からない」部分がまだまだあるようです。


極寒地帯で、野菜が手に入らず、生魚・生肉ばかりだけ食べて生きている遊牧民もいます。

インドの人口11億の大多数は、つまり日本の全人口の数倍の数億人の人々は、

先祖代々ベジタリアンで、一生肉や卵を口にすることなく何世代も健康に生きています。


つまり、人間は肉を食べても食べなくても生きて行けるのです。


動物はどうでしょうか。

動物は、「今日は肉にしようか、野菜にしようか、お魚にしようか」 と迷いません。

食べるものがそれぞれの種族によって、そして環境によって決まっているからです。

逆に言うと、自分で何を食べるかを決定できる機構が、

自然界という創造の中に造りこまれていないのです。



人間の場合はどうでしょうか。

人間には「選択」 という機構が与えられています。

自分の外側には選択肢が与えられ、

自分の中には思考し、意思決定できる頭脳が与えられています。

「人間は何を食べるべきか?」 と考えられるのは人間の特権です。

正しい情報を集め、自分で考え、自分で決められる、という特別な機能を持っています。


さらに、

「他の生き物は全て、自分と同じように、殺されたり傷つけられたりするのは嫌なのだ」

という知識も生まれながらに与えられています。

動物が虐待されたり、工場で屠殺されたり、解体されているのを見て、

不快に思えることは、人間の特権です。

他人のお金儲けのために、自然な気持ちに逆らう必要はありません。

人間でい続けるためには、この人間的な自然な気持ちは殺されるべきではないのです。

人間が人間である為の根本をなしている、この自然な気持ちに逆らうことは、

健康なことではありません。

自然の調和と矛盾しているからです。

どんなに身体に筋肉がついていて、柔軟力があって、血糖値や血圧や心拍数が安定していても、

もっとベースにある心が、創造のあり方と調和していなければ、

心の中に、「自然界 VS 自分」という図式が出来てしまいます。

自分の中での対立は、様々なものの正しい理解を妨げてしまいます。


逆に、歴史上、精神的に成長を遂げた人、自然界の法則を見抜いた人の多くはベジタリアンです。


この、人間の「思考力、意志決定力」 というのが、

腸の構造よりも、歯の形よりも、

人間が、人間らしく、心理的に健康である為に、

「人間は何を食べるべきか」を決定している、

人間らしい機能なのです。